三重県亀山市にある関宿(せきしゅく、せきじゅく)は、東海道五十三次の47番目の宿場として、江戸時代の交通の要となった都市です。現在は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、古い街並みや建造物がそのまま残っています。
街をあるけば、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になるので、街散策がオススメです。
更新日 2015年10月18日
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三重県亀山市にある関宿(せきしゅく、せきじゅく)は、東海道五十三次の47番目の宿場として、江戸時代の交通の要となった都市です。現在は、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され、古い街並みや建造物がそのまま残っています。
街をあるけば、まるで江戸時代にタイムスリップしたような気分になるので、街散策がオススメです。
三重県の中北部に位置する亀山市は、周囲に鈴鹿・布引の山々がそびえ、中央部には2本の川が東西に流れる水と緑に恵まれた地域です。また、古くは都と東国を結ぶ交通の要衝であり、東海道の宿場町として賑わうとともに、亀山城を中心とした城下町として栄えました。ぜひ亀山を巡り、豊かな自然と歴史に育まれた多彩な魅力を満喫してください。
そしてこれらの建物は、住民の居宅として今なお利用されています。ここに住む人々の生活もそのまま残る歴史情緒あふれる町並みが人気です。
天正18年(1590)、岡本宗憲によって築かれた城。築城時には、本丸・二之丸、三之丸からなり天守もあげられていたとされます。この天守は、寛永9年(1632)、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)の修築を幕府より命じられた堀尾忠晴が間違えて解体してしまったという伝承があります。
現存する「多門櫓」は、18世紀後半頃に武器庫として建てられ、明治期には士族授産の木綿段通 (もめんだんつう)工場として使用されていたため破壊されずに現在まで残り、三重県で唯一現存する城郭建造物として県史跡及び県有形文化財(建造物)に指定されています。
一里塚は江戸時代の始めにあたる慶長9年(1604)2月、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、諸国の街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標。三重県には旧東海道に沿って、12ヶ所に一里塚が設置されていましたが、現存するのはこの野村一里塚のみとなっています。また、もともとは道の両側にありましたが、現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。塚の上には、歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています。
そして、関宿旅籠玉屋歴史資料館には、もともと江戸時代に建築された旅篭建築の建物をそのまま利用して、資料館には当時実際に使用されていた道具類、旅に関する資料があります。そして関まちなみ資料館は、 関町の貴重な文化財、歴史資料の展示、関宿の町並みの移り変わりなどが展示されています。
旅籠とは、江戸時代、公用以外の武士や一般 庶民が利用した旅の宿。玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの、関宿を代表する大旅籠のひとつでした。現在は江戸時代の貴重な旅籠建築として修復され、亀山市文化財に指定されています。内部には、当時使われていた道具や庶民の旅に関係する歴史資料、歌川広重の浮世絵などが展示され、日本最初の旅籠資料館として、歴史の町並みとともに訪れる人々を江戸時代の旅の世界へ案内してくれます。
日本最古の地蔵菩薩を本尊とする「関地蔵院」には、東大寺の僧が、当時流行していた天然痘から人々を救うために安置したものであると伝わっているそうです。
江戸時代の情緒あふれる古い街へタイムスリップしませんか?
せきの地蔵さんに振袖きせて奈良の大仏むこに取るの俗謡で名高い関地蔵院。天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。この本尊は日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われています。境内の本堂、鐘楼、愛染堂の3棟の建物は国の重要文化財に指定。
一般社団法人 亀山市観光協会
〒519-1111 三重県亀山市関町新所664-2(JR関駅内)
TEL.0595-97-8877 FAX.0595-96-0700
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